北海道空知日台親善協会

台湾の歴史

History of Taiwan

北澤 治雄

(2001年5月作成)

台湾は、日本の南に位置し、琉球諸島に続く島で、面積は略九州と同じ。亜熱帯・熱帯地域に属し、真夏には40度、真冬で10度以下の気温になり、人口2千3百万人。台湾の外貨準備高は、日本、中国に続き世界第3位で1,136億ドルの外貨を保有し、経済的に非常に繁栄している。

歴史的には、オランダが1624年台湾南部を占拠し、同じ頃スペインが台湾北部を一時占拠していたが、オランダ時代が30数年続いた。近松門左衛門の国性爺合戦で有名な鄭成功(平戸の武士田川氏の娘を母とする)が明の為に清と戦い、1661年台湾のオランダ勢力を駆逐し、その後3代22年間鄭氏の台湾占領が続いた。1683年鄭家が清に帰降し、鄭氏の占領は消滅した。台湾の西海岸の平野部は清国の領土であったが、清国は、海外への渡航を禁止した事から、台湾は、清の国家の一部ではなかった。

明治の初め、琉球は、日本と清国両方に属していたが、1872年(明治5年)明治政府は、琉球王国を琉球藩にして国内の1藩とした。明治政府は、台湾東部は無主の地であるとの解釈を取ったが、薩摩藩などの国内の不満のガス抜きの為に明治政府は台湾東部に兵を送ったが、その討伐費は清国が負担した。清国は、その支払によって台湾東部は自国領とであることを証拠づけた。1885年(明治18年)清国は台湾を台湾省に昇格させた。

1894年(明治27年)日清戦争が起こり、戦争の勝利の結果、1895年(明治28年)4月17日、下関講和条約に基づき清国より台湾の割譲を受ける。日本政府は、統治行政機関として台湾総督府を設置、海軍大将・樺山資紀(かばやますけのり)を初代台湾総督に任命。
日本が台湾を領有した時、住民は2年間の国籍選択猶予期間が与えられ、清国を選ぶ者は自由に台湾を離れることも認められていた。台湾総督として樺山資紀の後を継いだのは、後の首相・桂太郎であり、そして陸軍大将・乃木希典と続く。

1898年(明治31年)3月、陸軍次官・児玉源太郎が第4代台湾総督として着任。総督の右腕となる民政長官として赴任して来たのが医学博士でもある後藤新平である。後藤新平は、当時40歳にて満鉄総裁として転出するまで8年余を台湾開発に尽くした。台湾は、植民地ではなく、日本の新領土、即ち米国でのテキサス、アリゾナ、カリフォルニア等と同じ、新領土して捉え、台湾の開発に臨んだ。

後藤新平は、大規模な土地・人口調査を行った上で、道路、鉄道、水道、港湾などのインフラ整備を始め,台湾の衛生環境と医療の大改善などの数々の事業を行った。台湾の上下水道はこの時代に整備され、あらゆる伝染病が消えた。又、当時17万人いたアヘン患者を徐々に減らし、1945年(昭和20年)には完全に撲滅した。

1898年(明治31年)の日本の国家予算が約2億2千万円だったころ、台湾総督府からの台湾開拓・整備予算として全国家予算の四分の一以上にあたる6千万円が要求されている。日本のこうした統治政策は、他国の植民地支配に例を見ない。1899年(明治32年)最終的には4千万円の予算が認められた。これにより、道路、南北縦貫鉄道(基隆―台北―高雄)の着工、港湾の整備等が行われ、製糖業を育成した。新渡戸稲造は、後藤新平の推薦で総督府技師としてサトウキビの品種改良を行った。台湾の砂糖生産量は、1900年(明治33年)の3万トンから5年後には2倍の6万トン、戦時中には160万トンまで成長した。天然樟脳の生産は,世界の8割を台湾で生産し、日本統治時代の遺産である。

1905年(明治38年)以降、台湾は日本政府からの補助金なしに財政的に独立出来た。
後藤新平の座右の銘「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」

日本人技師 八田與一(はったよいち)
今では台湾最大の穀倉地帯として潤う台湾南部の嘉南平野一帯も、日本の台湾統治が始まった頃は一面不毛の大地であった。アメリカを始め世界の水利事業に明るい日本人技師・八田與一は、洪水と旱魃を繰り返すこの嘉南平野を穀倉地帯に変えるには大規模な灌漑施設を作る必要があると提唱し、嘉南平野開発計画し、1920年(大正10年)着工10年後に完成させた。烏山頭ダムは当時東洋一の規模にて水路は1万6千キロ(万里の長城の約6倍)の規模であった。

1942年(昭和17年)八田はフィリピンの綿作灌漑調査の為、輸送船で現地に向かったが,途中五島列島沖でアメリカ潜水艦の攻撃を受け、殉死。1945年(昭和20年)9月1日八田夫人・外代樹(とよき)は遺書を残して烏山頭ダムに身を投げた。地元の人たちによって八田與一と外代樹の墓が建立された。

戦争末期不足する金属の供出が求められ八田與一の銅像もその難を逃れることが出来なかったが、しばらくして銅像が消えた。その後、1981年(昭和56年)溶かされて兵器に化けたはずの八田與一の銅像が突如あらわれた。つまり地元の人々が八田與一の銅像を隠したが、戦後中華民国の支配下で国民党政府が日本時代の銅像や痕跡をことごとく抹殺することに躍起になっていた時代では、とても日本人の銅像など持ち出すわけにはいかなかった。

明石総督
1918年(大正7年)陸軍大将・明石元二郎が第7代台湾総督として赴任。明石元二郎とは、日露戦争時に欧州各地でレーニンら革命運動家と接触し、ロシア革命を扇動することでロシアを後方から撹乱させた日露戦争勝利の影の立役者である。

明石総督の代表的な事業として、日月潭の水力発電事業がある。司法制度改革や教育改革がある。1919年(大正8年)の台湾教育令があり、この法令によって台湾で多くの学校が開設された。1921年(大正10年)の新教育令で台湾人と日本人が机を並べることになる。台湾における教育の普及は、その後の台湾の知的基盤となり、現在の磐石な経済力を作り上げていったことは論をまたない。

1945年(昭和20年)の台湾の就学率は92%、一方、4百年間もオランダの植民地であったインドネシアの就学率は僅か3%で、欧米列強の植民地政策は愚民化政策の下に一方的な搾取をおこなうばかりであった。

明石総督は今も台湾人の間で語り継がれている理由は、こうした総督時代の業績ばかりでなく、19人の総督の中で唯一台湾に埋葬された総督なのである。明石総督の遺言に従い、遺骸は、郷里の福岡から台北に運ばれ、日本人墓地に埋葬された。

台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物であり、当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地とは違い、日本のそれは、良心的な植民地政策だった。

太平洋戦争の時、昭和17年陸軍特別志願兵制度が作られ、初めて台湾人に軍人の門戸が開かれた。千人の募集に対して40万人の志願兵が応募し、実に400倍の倍率であった。特に高砂義勇兵がジャングル戦に強く、彼らの活躍により多くの日本兵の命が助けられた。高砂族(原住民)15万人中6千人志願し、半分が戦死した。32年間フィリピンのジャングルで生き延び、1974年(昭和49年)発見された中村輝夫一等兵(本名スニヨン)は、高砂族アミ族の出身で最後の皇軍兵士と呼ばれた。

李登輝総統の実兄李登欽は、海軍機関上等兵としてフィリピンで戦死。台湾人戦没者2万7千人と共に靖国神社に祀られている。

終戦と台湾祖国復帰
終戦時、台湾には日本人約50万人が住んでいたが、その内20万人が残留を希望したが、蒋介石は認めず、日本人全てを台湾から追放した。帰国する時、携行を許されたのは現金千円(現在の貨幣価値で80万円位)と僅か2個の荷物のみであった。
1945年(昭和20年)10月17日中華民国軍先遣隊12,000人が上陸。その後、中華民国政府による台湾統治が全島にゆき届きはじめた。それと同時に役人や警察がその権力を傘に威張りちらし、不正がはびこり賄賂が横行しはじめた。警察は、罪の無い人を微罪で捕らえ、あるいは罪をでっちあげて拘束し、保釈金稼ぎを競い合った。

公用語は、それまでの日本語は使用禁止となり、これにかわって北京語が強要された。一夜にして公用語が日本語から北京語に変わったことは、単に市民生活の混乱を招いただけでなく、台湾社会の発展にとって大きな損失となった。それまで台湾は、日本語を通して多くの近代文明を吸収した。まさに北京語の強要は、台湾を前近代社会へ逆戻りさせることを意味していた。そして日本語を使うことは逮捕理由にもなった。

228事件
中華民国が台湾にやってきて、日本統治時代とはうってかわって汚職・不正がはびこり、人々の道徳は乱れた。おまけに大陸からやってきた外省人(中国人)による本省人(台湾人)に対する差別・迫害は徹底して行われ、政府の役人や官憲などの要職は外省人で占められ、本省人(台湾人)は、被征服民に甘んじなければならなかった。

日本統治時代の会社や専売局は、そのまま外省人の手に渡り、彼らの懐を肥やすことだけに利用された。

1947年(昭和22年)2月27日台北市内で外省人官憲と専売局の役人が、老婆が生活のために露天で売っていた密輸タバコを没収し、さらに売上金を巻き上げた。老婆は、売上金だけでも返して欲しいと懇願したが、彼らは聞く耳を持たず、逆に銃床でこの老婆の頭部を叩きつけ、老婆は頭から血を流してその場に倒れた。

この様子を見ていた民衆は、暴行を働いた官憲達を取り囲み、彼らを非難し始めた。これに恐怖感じた官憲の一人が丸腰の群集に向かって銃を発射し、一人の若者の命が奪われた。集まった民衆の怒りが爆発した。群集は、官憲達が逃げこんだ警察局の建物を取り囲んで当事者の引渡しを求めた。警察当局は、その要求を拒否したが、群集はその場を離れ様とはしなかた。

この事件の噂は、一夜にして台湾全島を駆け巡り、これまで外省人の非道横暴に我慢してきた本省人はついに立ち上がった。翌28日群集は、総督府前に集合し、抗議の集会を開いたが、憲兵隊はこれに機銃掃射をし、この無差別殺戮によって死傷者は十数名を数え、群集の怒りは頂点に達した。

世に言う「228事件」が勃発した。各地における抗議行動は、全島に広がり放送局を占拠した民衆は台湾全土に向けて非常事態を告げた。こうして事件は瞬く間に全島に拡大し、本省人と外省人の対立はますます先鋭化した。この事件は現代にいたるまで本省人と外省人を精神的に分離する台湾史上もっとも深刻な出来事となった。本省人は、この事件によって台湾人というアイディンティティをより一層強め、またそれは中華民国への決別を決定的なものにした。

この台湾での騒乱に対して、南京でこの知らせを受取った蒋介石は、一人の共産党の反乱分子を始末するためなら、百人の無実の者を誤って殺しても構わないと命じた。中華民国軍2個師団が台湾に派遣され、台湾人への報復を開始した。政府主導による台湾人の検挙・処刑が始まった。医師、弁護士、学者、教師など知識層が無実のまま次々と逮捕され、裁判も無く虫けらのように処刑された。この殺戮の犠牲者となった台湾人は、3万人とも5万人ともその実態は今でも解明されていない。

1949年(昭和24年)10月1日共産党は、中華人民共和国の建国を宣言した。国共内戦に敗れた中華民国政府は、1949年12月7日台湾に移転、台北を臨時首都とすることを宣言した。国連安保常任理事国の地位にあった国民党政府=中華民国は、日本から接収し、中央政府から派遣された台湾省行政長官が4年間支配していた台湾に、蒋介石はじめ国民党と中華民国に係るいわゆる外省人が国家まる抱えで疎開した。ここに二つの中国の歴史が幕を開けた。国民党独裁の40年間は、それは台湾のもっとも暗く陰湿な時代であった。

台湾を恒久的に暗黒社会にしたのが、国共内戦の延長線上に施行された「戒厳令」と「動員戡乱時期臨時条款」(中華民国憲法に優先し、総統に最大限の権限を付与した時限立法)だった。文化面でも台湾語の人形芝居を北京語に変えるとか、テレビが普及しても台湾語の放送は1日1時間以内に限定するとか台湾文化の破壊が進められた。又、反日教育も徹底的に行われた。日本統治時代の痕跡を抹消すべく記念碑や日本人の銅像などをことごとく破壊した。

この蒋介石を始めとする蒋家の独裁政権は、1988年(昭和63年)の李登輝総統の登場まで続くこととなる。僅か10%の外省人(中国人)が90%の本省人(台湾人)を支配した歴史である。1988年(昭和63年)の蒋経国総統(蒋介石の長男)の死と、台湾人の李登輝総統の誕生から、1996年(平成8年)の総統直接選挙での54%の得票率での再選、更に2000年(平成12年)の台湾独立派の陳水扁総統の誕生によって台湾の民主化が達成されることになる。

日本時代は太平洋戦争の敗戦で台湾を放棄するまで50年続いた。日本は、台湾に対し、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利事業をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。戦後、台湾は中華民国領になった。大陸で敗れた中華民国は1949年国家そのものを台湾に持ち込んできた。政治的不条理の下で、住民はよく働き、今や、台湾は、高水準な経済社会を築いたが、本来流民の国だったものがここまでの社会を作った例は、アメリカ合衆国の例以外、世界史にはないのではないか。

現代社会において、国家というものを考える時に、台湾のケースが一つの研究課題になり、また日本の戦後史において戦前を振り返り、戦後社会との関連性を考える重要な要素としても台湾の歴史は検討の値がある。

以上